大判例

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浦和地方裁判所 昭和49年(ワ)579号 判決

原告

斎藤美徳

右法定代理人親権者父

斎藤徳市

右法定代理人親権者母

斎藤みよ子

原告

斎藤徳市

原告

斎藤みよ子

右原告三名訴訟代理人

森謙

外五名

被告

川口市

右代表者

大野元美

右訴訟代理人

桜井英司

檜山玲子

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、原告ら

1  被告は、

(一) 原告斎藤美徳に対し、金一、六五八万四、〇〇〇円及び内金一、五七八万四、〇〇〇円に対する昭和四九年九月一〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を

(二) 原告斎藤徳市、同斎藤みよ子に対し、各金一六〇万円及び各内金一五〇万円に対する昭和四九年九月一〇日から支払済みまで年五分の割合による各金員を

それぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決。

二、被告

主文と同旨の判決。

第二  当事者双方の主張〈以下、省略〉

理由

一原告美徳の失明とそれに至つた経緯

請求原因第1、2項の各事実は当事者間に争いがなく、右事実と成立に争いのない〈証拠〉によると次の各事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  原告美徳は、昭和四四年九月二二日午後四時四八分、被告が地方公共団体の事業の一つとして地方自治法、条例に基づき経営する川口市民病院において、原告徳市、同みよ子の長男として出生したが、在胎八か月(二九週六日、分娩予定日昭和四四年一二月二日)、体重一、五〇〇グラム、身長四一センチメートル、胸囲24.5センチメートル、頭囲27.5センチメートルのいわゆる未熟児であつたため、直ちに同病院の小児科に移されて、相当主治医渡辺敏彦医師のもとで保育医療を受けることになつた。

2  小児科に移された際の原告美徳は、胸部、腹部、咽頭部には異常がなかつたものの、四肢にチアノーゼがあり顔色がやや蒼白で、呼吸困難の徴候を示していたので、渡辺医師は同日午後四時五三分、同原告を、気温が摂氏三二度、湿度が一〇〇パーセントの保育器に収容したうえ、同保育器内へ酸素を一分間に2.5リツトルの割合で供給し、その結果、原告美徳の顔色は良くなつたが四肢のチアノーゼが消失せず、四肢に軽度の冷感があつたので、同日午後七時からは酸素流量を一分間三リツトルとした。

同原告は、呼吸が安定し、同月二五日ころまでにはチアノーゼが消失し、四肢の冷感もなくなつて、状態が良化したが、同年一〇月一日午後に至つて急激に悪化し、一、二分間も続く無呼吸状態を示して、胸部の刺激により一時的に自発呼吸になつてもすぐに無呼吸状態に戻つてしまい、チアノーゼが顔面、手にみられ、全身の冷感が強度で、心音も低くなつたため、同日午後五時三〇分ころ重症指定を受け、酸素流量は一分間五リツトル(濃度五四パーセント)に増量された。その後も無呼吸状態が頻繁にみられ、一般状態は極めて不良であつたが、同日午後九時すぎころには呼吸は浅く時々二〇ないし三〇秒の呼吸停止があるものの、全身の冷感がやや軽減して一般状態がやや良化してきた。そして翌二日にはチアノーゼがなくなり、全身の冷感も軽度なものとなり、一般状態が安定したので、一旦酸素流量が一分間三リツトルに下げられたところ、同日午後二時三〇分ころ無呼吸状態があり、時々不規則な陥没呼吸が認められたため再び酸素流量が二分間五リツトル(濃度五〇パーセント)に増量された。

その後呼吸も次第に安定して呼吸停止も少なくなつてきたので、同月四日酸素流量は一分間三リツトルに減らされ、同月七日には重症指定が解除された。そして、原告美徳の状態をみながら酸素流量は一分間に二リツトル、一リツトルと段階的に減量され、同月二九日に酸素の供給が打ち切られた。

同原告の体重は、保育器収容後生下体重から減少して九月二五日には一、二八五グラムとなり、その後、人工栄養を与えはじめたため増加して同月二九日には、一、三六〇グラムにまで上昇したが、状態の悪化により、一〇月二日には一、二五〇グラム、同月六日には一、一九五グラム、そして同月九日には一、一四〇グラムにまで落ち込み、その後増加に転じて一一月二〇日には二、〇二〇グラムまでに成育した。

原告美徳は同月二一日保育器内保育を解除され、同年一二月一五日体重二、七六〇グラムに達したときに退院した。

3  原告徳市、同みよ子は、昭和四五年一月中旬ころ原告美徳の眼の異常に気づき、同月二二日退院後の乳児検診のため川口市民病院を訪れた際、渡辺医師に相談して、同病院の眼科医土岐達雄、東京医科歯科大学大島祐之助教授の診察を受けさせたところ、両名とも原告の両眼は未熟児網膜症の瘢痕期にあつてもはや治療の余地がないと診断した。

そして、本症の結果原告の両眼は失明した。

二本症の概観

〈証拠〉を総合すると次の事実が認められ、他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。

1  本症研究の歴史

一九四二年米国のテリーが水晶体の後部に黄白色の組織塊を認める眼異常を最初に報告してこれにRetrolental fibro-plasia(水晶体後部線維増殖症、R.L.F.)と命名し、水晶体後血管膜を含む胎生血管の遺残、過形成によるものとした。ところが、一九四九年に米国のオーエンスにより本疾患は未熟児に主として起る後天性疾患であると主張されて以来、臨床的、病理的研究が進展し、本症は発育途上にある網膜血管の一つの疾病であり、その病理的特徴は増殖性の網膜内皮の結節と硝子体内への新生血管の発芽で、網膜剥離を伴う末期の状態は硝子体内の血管及び出血の器質化による非特殊性変化であることが明らかにされて、本症と相似た臨床所見を呈する第一次硝子体過形遺残、網膜異形成、先天性鎌状剥離などの先天異常との区別が明確にされ、これに伴いその名称もRetinopathy of Pre-maturity(「未熟児網膜症」と邦訳された。)とするのが適切であるとされるに至つた。

本症は、未熟児に対し酸素療法を自由に駆使していた一九四〇年代後半から一九五〇年代前半にかけて多発したが、一九五一年オーストラリアのキヤンベルは本症の発生が酸素の過剰投与と関係があると報告し、動物実験でも高濃度の酸素投与が未熟な眼に障害を与えることが証明された。本症が乳幼児の失明の最大原因となつた米国では一九五三年から一九五四年にかけて本症の共同研究が行なわれて本症と酸素との関係は確実とされ、一九五四年米国眼科学会における本症に関するシンポジウムにおいて、①未熟児に対する常例的な酸素投与を中止して、②チアノーゼあるいは呼吸障害の兆候を示すときにのみ酸素を使用し、③呼吸障害がなくなつたら直ちに酸素療法は中止する、との酸素使用の厳しい制限が要請され、これにより本症の発生頻度は劇的に減少し、一旦は過去の疾患として顧られなくなつた。

しかし、一九六〇年アベリーとオツペンハイムは一九四四年から一九四八年の酸素を自由に使用していた期間と一九五四年以後の酸素の使用を厳しく制限してから特発性呼吸障害症候群の死亡率を比較し、後者の方が死亡率が高いことを報告したため、その後は呼吸障害児には高濃度の酸素補給が行なわれるようになり、再び本症の増加する可能性が強くなつた。このような情勢にかんがみ、米国では一九六七年国立失明予防協会主催の未熟児に対する酸素療法を検討する会議が小児科医、眼科医、生理学者、病理学者を集めて開かれ、①酸素投与の基準、②酸素療法を受けた乳児の臨床的兆候、動脈血の酸素分圧値の測定、眼底所見との関連、精神運動発達に関する情報収集の必要性、③環境酸素濃度看視装置の改善の必要性、④適切な観察がなしえない場合の酸素使用に関する警告の必要性、⑤血管運動を支配する因子における基礎的研究の必要性が問題点としてとりあげられ、その結果、酸素療法を受けた未熟児はすべて眼科医が検査すべきこと、未熟児は生後二年までは定期的に眼の検査を受ける必要性があることが強調された。

わが国においては、米国等で本症の多発した一九四〇年ないし一九五〇年(昭和一五年ないし同二五年)当時は、いまだ未熟児保育施設は少なく、保育器も未発達で未滅児を高濃度の酸素環境で保育することがほとんどなかつたため本症に対する関心が薄かつた。その後、散発的に本症発生が報告されたが、関心をよぶには至らず、小児科医、眼科医のほとんどが本症は過去の疾患でわが国では起らないと考えていた。

昭和三九年に至り、慶応大学眼科の植村恭夫医師は弱視として来院する小児のなかに本症の軽症瘢痕例がみられることに注目し、翌四〇年には本症が増加傾向にあることを警告したが、以来次第に本症に対する関心が高まり未熟児の眼科的管理の必要性が説かれるようになつてきた。

2  本症の臨床症状と経過

本症の起始、進行は個々の症例によつて様々であり、その分類もスチユーツイク、リース、パツツらによるものなどがあるが、臨床上オーエンスによる分類を用いる医師が多く、最近では植村医師を主任研究者とする厚生省未熟児網膜症研究班による分類が発表された。

(一)  オーエンスは臨床経過を活動期、回復期、瘢痕期の三期に大別する。

(1) 活動期

Ⅰ期(血管期)、Ⅱ期(網膜期)、Ⅲ期(初期増殖期)、Ⅳ期(中等度増殖期)、Ⅴ期(高度増殖期)に分けられる。Ⅰ期は網膜血管の迂曲怒張をもつて特徴づけられ、Ⅱ期に入ると周辺網膜に限局性灰白色の浮腫が出現し、その領域には竹籠状の血管新生がみられ、出血、硝子体混濁が出現するとされる。ここまでの経過は発症してから三ないし五週間にわたるものが多い。Ⅲ期に入ると、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起り、血管新生の成長が増殖性網膜炎の形で硝子体内へ突出し、周辺網膜に限局性の網膜剥離を起す。更に、Ⅳ期、Ⅴ期と進み、高度増殖期は最も活動的な時期で、網膜全剥離を起したり、時には眼内に大量の出血を生じ硝子体腔を満たすこともある。

(2) 回復期

本症は活動期Ⅰ、Ⅱ期で自然に軽快治癒することが多く、全体の八五パーセントにのぼり、この場合には全く瘢痕を残さないで治癒するか、一部周辺に瘢痕を残すにとどまる。

(3) 瘢痕期 瘢痕の程度に応じてⅠ度からⅤ度に分類される。

Ⅰ度 眼底蒼白、血管狭細、軽度の色素沈着などを示す小変化

Ⅱ度 乳頭変化と呼ばれるもので、網膜血管も耳側に牽引され、黄斑部の外方偏位を伴うことが多い。臨床的にはこのⅡ度の瘢痕例が最も多くみられる。

Ⅲ度 網膜襞の形成

Ⅳ度 不完全水晶体後部組織塊

Ⅴ度 完全水晶体後部組織塊で、外部より白色瞳孔として認められる。現在では水晶体後部線維増殖症とはこのような状態をさす。

(二)  厚生省未熟児網膜症研究班は、両眼立体倒像鏡またはボンノスコープを用い、散瞳下において検査した場合として活動期の臨床経過を分類することとし、まず本症をⅠ型、Ⅱ型に大別する。Ⅰ型は、主として耳側周辺に増殖性変化を起し、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内への滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強い型である。Ⅱ型とは、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極よりに耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離を起すことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型のものをいう。

(Ⅰ型の臨床経過分類)四期に分ける。

(1) 第一期(血管新生期)

周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないか、軽度の血管の迂曲怒張を認める。

(2) 第二期(境界線形成期)

周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の迂曲怒張を認める。

(3) 第三期(硝子体内滲出と増殖期)

硝子体内への滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。

(4) 第四期(網膜剥離期)

明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とする。耳側の限局性剥離から全周剥離まで範囲にかかわらず明らかな牽引剥離があればこの時期に含まれる。

(Ⅱ型の臨床経過分類)

Ⅱ型は血管新生が起ると後極部の血管の迂曲怒張も著明ととなり滲出性変化も強く起り、Ⅰ型の如き段階的経過をとることも少なく、比較的急速に網膜剥離へと進む。したがつて、血管新生期と網膜剥離期に分けられる。瘢痕期の分類については第一ないし第四度に分類した。

第一度 眼底後極部には著変がなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化(色素沈着、網脈絡膜萎縮など)のみられるもので、視力は正常のものが大部分である。

第二度 牽引乳頭を示すもので、網膜血管の耳側への牽引、黄斑部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す。黄斑部が健全な場合は視力は良好であり、黄斑部に病変が及んでいる場合は種々の程度の視力障害を示すが、日常生活は視覚を利用して行なうことが可能である。

第三度 網膜襞形成を示すもので、鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、これに血管がとりこまれ、襞を形成し周辺に向つて走り、周辺部の白色組織塊につながる。視力は0.1以下で弱視または盲教育の対象となる。

第四度 水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領よりみられるもので、視力障害は最も高度であり、盲教育の対象となる。

3  本症の発生機序と原因

本症の原因としては、母体側か未熟児側の先天性あるいは環境因子の関与、未熟児に使用する水溶性ビタミン、鉄剤、粉乳、電解質、輸血などが関係するという説、ビタミンE欠乏説、ウイルス感染説、ホルモン欠乏説など幾多の説が出されたが、これらの説は否定的に考えられるに至つた。パツツらは、本症の発生に未熟児の眼球側の因子を重視し、網膜血管は胎生八か月では児側の血管は鋸歯状縁まで達しておらず、八か月で出生するとそれ以後の網膜血管の新生は胎外環境で行なわれることになるが、この新生血管は酸素の過剰にも不足にも敏感に反応すると述べ、アシユトンらは、幼若仔猫を酸素環境において過酸素症の状態にすると網膜血管は強く収縮し、不完全あるいは完全閉塞を起し、この状態が数時間続くと空気中に戻しても、もはやもとの状態に戻らず、そこに血管増殖が起り本症の初期症状に似た所見を呈する、と述べた。

そして、現在では本症の発生に関し酸素が重要な因子となることには異論がなく、一般に発生機序はおよそ次のように考えられている。

ヒトの網膜は胎生四か月までは無血管であり四か月以降に硝子体血管から網膜内に血管が発達し、胎生六、七か月で血管発達は最も活発となり、胎生八か月では網膜鼻側の血管は周辺まで発達しているが、耳側では鋸歯状縁に達していない。そして在胎週数の短いものほど鋸歯状縁との間の無血管帯が広く、網膜血管の未熟性も強い。成熟血管は酸素投与により収縮しても投与中止によりもとに戻る可逆性を有するが、未熟な血管は酸素投与により強く収縮して血管閉塞を起しもとに戻らなくなる。このような発達途上にある未熟な網膜血管に対する酸素による障害は酸素の濃度と投与期間の両者に直接関係し酸素の濃度が一定ならば投与期間の長短に関係する。

なお、網膜内皮細胞の崩壊が酸素の直接の毒作用によつて起るのか、血管収縮、閉塞による循環障害の結果起るのかについてはいまだ明らかにされていない。

続発性変化である血管形成組織の増殖は、網膜内皮細胞の壊死や循環障害によつて起される局所の代謝障害、無酸素状態などによつてもたらされる。

以上の発生機序によれば、本症の原因は網膜の未熟性と酸素の投与が主要なものということになる。

しかしながら、本症のなかには酸素投与がなされなかつた例もあり、出生時すでに活動性あるいは瘢痕病変を認める先天水晶体後部線維増殖症の症例が存在することも報告され、また本症が、出生体重二、〇〇〇グラム以上の乳児や満期産の成熟児にもみられた例も報告されているなど、右の機序だけでは十分な説明ができないと思われる例もあることから、他の因子も存在することが考えられ、現に出生を境に起る胎児ヘモグロビンの酸素飽和度の急激な上昇、胎児の酸素分圧値から新生児の酸素分圧値への変化が本症をひき起すひきがねとならないか、あるいは未熟網膜に対する光の影響がないかを検討する必要があるとされており、また右の発生機序自体にも未解明な点が残されているのであつて、本症の発生機序、原因はいまだ十分に解明されたとはいえない状態にある。

4  本症の予防及び治療方法

本症の予防方法は、酸素欠乏の状態にある未熟児は酸素療法によつてはじめて生命を保ち、脳障害から免れることができるのであつて、これが不可欠なのであるけれども、酸素投与が本症の発生の重要な因子となつていると考えられることから、主として酸素療法に関して指摘され、一般的には未熟児に対し投与する酸素量及びその期間を必要最少限にとどめることが挙げられるが、そのガイドラインを①動脈の酸素分圧値により、あるいは②検眼鏡的検査により設定する方法が考えられる。しかし、①については高価な器械を必要とするうえ未熟児から繰り返し採血しなければならないためすべての施設で簡単に行なえるというものではないこと、側頭動脈での採血を除いては意義がないといわれていること、しかも動脈酸素分圧値と網膜血管径の間にはきれいな相関々係が認められず、一般には一三〇ミリメートルHg以上では危険といわれるが二〇〇ないし三〇〇ミリメートルHg以上になつても血管狭細が起らないものもあるし、逆に低酸素でもみかけ上血管狭細を示すものがあることにより、また②については本症の発生しやすい一、二〇〇グラム以下の未熟児では生後一か月以上も眼にもやがかかつたような状態が続きこの間眼底検査が満足に行なうことができないことによりいずれもその有効性には疑問が投げかけられている。

そこで臨床的には全身的なチアノーゼをめやすにして酸素の投与量を決定することが行なわれる。ウオーリイとガードナーは、チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め、それから徐々に酸素濃度を下げて軽くチアノーゼがあらわれるときの酸素濃度を調べ、その濃度の四分の一だけ高い濃度にする方法をすすめている。しかし、無呼吸発作を反復する未熟児に対しては無呼吸時に低下した酸素分圧値が呼吸開始とともに著しく上昇することが考えられるので、持続的な酸素投与は危険があり避けるべきであるが、このような症例には適切な酸素濃度を決定することは困難で、ウオーリイとガードナーの方法も適用できない。結局、無呼吸発作から回復したら速やかに酸素を減量ないし投与を中止するよう心がけ、無呼吸発作時にのみ酸素を与える間歇的酸素投与を行なうほかない。

アシユトンらは、保育器内の酸素をある間隔で自動的に空気と完全に置換する方法を用いて、動物実験により網膜血管閉塞を防ぎうることを確認し、この間歇性酸素投与法を用いれば本症を予防しうると報告した。しかし、これを直ちにヒトの未熟児の酸素療法に適用するには無呼吸発作や呼吸障害児が間歇的に空気環境におかされたときに生命に危険がないかの問題があるし、ヒトの場合にもこれにより本症を完全に予防できるかの疑問も残されており、実施の段階に至つていない。

そこで未熟児の眼科的管理の重点は本症発生の危険を予知し、あるいは早期に発見し、適切な治療を行なうことによつて本症による失明、弱視をなくすことにあり、この目的のために定期的眼底検査が必須なものとなる。この検査で特に注意すべきことは、後極部の直像検査だけでは耳側周辺の病変をみおとすことになるから、ボンノスコープないしは両眼倒像検眼鏡を用いて好発部位である網膜耳側周辺部を注意深く観察することが必要なことである。検査技術の習得はかなり経験に左右され、眼科医ならばわずかの期間内で可能であるが、眼科医以外ではかなりの期間を要する。検査は一週一回定期的に行ない、ことに在胎週数を延長して三二週から三六週の間は最も危険が高いので注意深い検査が必要であり、発症をとらえたら一日おき、ときには毎日観察するが、これに要する時間は約一〇分から二〇分である。

本症の治療方法としては、ビタミンE、ビタミンC、ビタミンP、副腎皮質ホルモンなどの薬物療法と光凝固による物理的療法がある。薬物療法は比較的初期から使用されても進行を続け失明におちいるのを防ぎえない例もあり、治癒した例についても本症には自然治癒が多いため薬物による治癒なのか自然治癒なのか判定できず、あまり期待できない状態にある。これに対し、光凝固は適当な時期(オーエンスの活動期Ⅲ期のはじめころ)に施行されれば後極部網膜に影響を及ぼすことなく確実に治癒せしめうると考えられ、最近では冷凍凝固法も有効とされている。しかし、これらの治療については、用いる装置が高価であり、治療上高度の技術を要すること、この治療法が行なわれはじめてからいまだ長期間経過していないため、副治的作用の有無が確定していないことなどの問題点も存する。

三被告の責任

1  本件当時の本症に関する医療水準

医師は、生命の維持、健康の回復、維持、増進という人間にとつて最も普遍的、根源的な価値を管理することを業とするものであるから、医療行為においては自己の専門家としての高度の医学知識に基づき、最善を尽してこれにあたるとともに、医療行為自体にともなつて起りうる危険をできるかぎり回避するよう手段を尽すべき義務があるが、臨床医学は日々に前進するものであるから、医師は絶えずこれを吸収して自己の医学知識を高め、その時点における医学界の水準に達した医療措置をとることができるように努めなければならないことはいうまでもない。しかし、その反面、一定の時点において医師に対して期待できる医療行為はその当時における医療水準に照して相応な措置にとどまり、その当時より医学の進歩したのちの時点において期待しうるにようになつた医療行為に照して当時の医師の過失の有無を論ずることはできないのも自明のことである。

そこで、本訴訟において主要な争点となつている渡辺医師及び被告固有の過失の有無を判断するには、本件当時の本症に関する医療水準を明らかにする必要があるので、それまでに出版された医学専門雑誌に掲載された論文や医学書の内容の概略を示すことによりこれを明らかにする。

〈証拠〉によれば次の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(1)  昭和三二年五月、養育会病院小児科の藤井としらは、「臨床小児医学」において、本症の発生と酸素の供給との間に密接な関係が存在することはほぼ明らかであるが、わが国では未熟児の保育に欧米ほど多量の酸素を用いないためか、定期的な症例の報告は見当らないとしたうえ、養育会病院で入院保育中ないし退院した未熟児四六例の眼底検査を行なつたところ八例に本症の初期変化に該当する異常を認めたと報告するとともに、スチユーツイクが本症の予防法として①酸素の供給は必要とする例のみにとどめること、②酸素濃度は必要以上に高濃度としないこと、③供給期間を必要最少限にとどめること、④酸素供給の停止はできるだけに徐々にすること等を挙げ、なお初期変化の見られたときには再び高濃度に戻すことが大切である、としていることを紹介した。

(2)  昭和三五年二月、順天堂大学眼科の中島章らは、「臨床眼科」において、東京都の未熟児センターである世田谷乳児院で保育した乳児二一五例(うち未熟児一四四例)を検査したところ、七例(いずれも未熟児)に本症(瘢痕期)を認めたと報告したうえ、欧米において、本症は未熟児に用いる酸素の使用量にその原因があることが解明されたとし、本症の予防法として、未熟児に対する酸素の投与を最少限に制限し、濃度は四〇パーセント以下にし、酸素補給の停止の場合は徐々に濃度を下げることを挙げ、本症の初期の病変は可逆的であるから酸素補給療法によつて治癒しうるが、わが国でも今後未熟児保育の成績が向上するにしたがつて極小未熟児の保育が増加し、酸素使用も増加すると思われるので、酸素使用に際しては眼科医と小児科医が緊密な連絡をとつて細心の注意を払いながら行なうことが重要であると述べた。

(3)  昭和三六年二月、中島章は、「小児科」において、酸素の消費量と本症発生頻度との間にはかなりの相関がみられるとし、酸素を使うときは欧米の文献の記載によつて厳密にコントロールしながら使用することが大切であると述べた。また、小児の眼検査法上の注意を記し、そのなかで眼底検査に関しても述べたが、本症の眼底所見については触れなかつた。

(4)  昭和三六年八月、弘前大学医学部眼科教室の工藤高道らは、「臨床眼科」において、本症瘢痕期三例を報告し、酸素が本症発生の重要な因子であることを指摘したうえ、今後未熟児に対する酸素療法が普及するにつれて本症発生の増加が予想されるので、本症発生予防のために眼科医が産科医、小児科医等と協力観察することが望ましいと述べた。なお、本症の治療については効果の期待できるのは活動期のものだけであり、適度の酸素補給、ACTH(向副腎皮質ホルモン)によつて治癒したとの報告が少なくないとした。

(5)  昭和三八年六月に出版された「クロス・未熟児」(大坪佑二訳)の本症の項には、本症の発生率は①投与酸素の濃度、②酸素投与期間、③酸素投与時における眼の未熟の程度に関係があり、その予防法としては、酸素の使用は酸素がないとチアノーゼが起る児に限らなければならないこと、その場合にも皮膚の色を良好に保つことのできる最小限の濃度のものを最小限の期間にとどめるべきであること、酸素の濃度は信頼性のある流量計を使い、定期的に濃度測定をしながら調節すること、酸素濃度は原則として三〇パーセントを超えてはならず、越すことが許されるのは例外的場合だけで、その場合も四〇パーセントを越えてはならず、チアノーゼの児を蘇生させる目的のために高濃度の酸素を短期間マスクで投与することはあるが、ごく短時間にとどめなければならないことが挙げられ、治療法としては外科的処置、ACTH、コーチゾン、ビタミンE、高酸素濃度に戻す方法など多くの努力が払われてきたがすべて無効であつたと記されていた。

(6)  同年八月に出版された日本産婦人科全書(樋口一成ら編集)の本症の項には、現在では本症は未熟児保育環境における酸素張力に密接な関係があることが認められるに至つたとし、脳細胞に対する無酸素症の影響が甚大であるから、酸素の必要なときには充分与え、必要のないときはこれを制限することが大切であると記されていた。

(7)  同年一二月、中島章は、「臨床産婦人科」において、本症には保育に際して用いられる酸素の濃度に主なる原因があることが明らかとなつており、一九五〇年代には保育器内の酸素濃度に充分な注意を払う一方未熟児の眼底について絶えず観察を行なうべきことは充分知られていたと述べた。

(8)  昭和三九年、植村恭夫は、「眼科」において、本症の原因として先天異常説、ビタミン欠乏説、過剰説、ストレス説等の説があるが、未熟児の不完全な血管新生の状態と酸素による障害とが最も注目されているとしたうえ、現在一般に本症の予防、早期発見、早期治療に対する関心が甚だ乏しい状態にあり乳幼児の眼底疾患についての眼科医、産科医、小児科医の協力も薄く、眼底検査も一部の大学、病院等では施行されているが、いまだ一般に普及するまでに至つていないとし、新生児は出産後三週間までその後は半年に一回くらいの割で眼底検査をすることが望ましいと述べた。しかし、本症の治療法については、適度の酸素の供給、ACTHによつて治癒したとの報告が少なくないとするにとどまつた。

(9)  昭和四〇年三月発行の「眼科臨床医報」には、神戸中央市民病院の松田一夫らが昭和三九年五月二四日京都大学医学部内科講堂において、本症瘢痕期例二例を報告し、未熟児に与えられる酸素の量が決定的な役割を果すから、保育器内の酸素分圧を四〇パーセント以下に抑え、正常大気に移すときには徐々に分圧を下げていかなければならないこと、治療方法としては、きわめて早期に再び酸素をかける酸素療法、未熟児に対するものとしての蛋白同化ホルモン、ACTH、網膜新陳代謝を高める意味のATP(アデノシン三リン酸)等が有効とする報告があることを述べたと記されていた。

(10)  同年六月、植村恭夫は、「小児科」において、本症が近年わが国でも次第に増加してきていること、本症の発生に酸素療法が重要な関係があり、高濃度の酸素と酸素療法の急激な中断が重視されていることを述べ、本症の臨床経過の分類としてスチユーツイクによるものとオーエンスによるものを紹介し、本症の予防法として、ロミコーヴアのいう未熟児をつくらないようにすることを挙げたうえ、これを理想としつつも未熟児が出生し酸素療法を行なわなければならない場合には過剰酸素を与えないよう、また酸素の不足も厳に戒めねばならず、至適濃度を投与しなければならないとした。また、ベドロツシヤンが新生児に対する酸素補給は必要最少限に制限し、酸素濃度は四〇パーセントを越えないようにすべきであり、酸素療法を中止するときには濃度を徐々に減じることが大切であるとし、パツツが未熟児センターをもつすべての病院は本症の発生防止、早期治療を念頭において管理のプログラムをたて、酸素療法は未熟児管理責任医師の命に従い、その濃度は必要最小限を用い、流量のかわりに濃度で命じなければならない、未熟児センターには酸素分析器を必ず備えるべきであるとする各主張を紹介した。そして、本症は活動期の可逆性のある時期なら適当な酸素供給、ACTH、副腎皮質ホルモン剤の投与で治療できるが瘢痕期になつてからでは全く手の施しようがないとし、そのため生後より三か月までの反復した眼底検査が鍵であると述べた。

(11)  昭和四一年五月、植村恭夫らは、「臨床眼科」において、わが国では本症に対して欧米ほどの関心がもたれておらず、予防、早期発見、早期治療に対する積極的対策がなされていないとし、本症の活動期、瘢痕期の症例を報告するとともに、未熟児の眼科的管理を唱え、眼底検査の方法を示した。なお、副腎皮質ホルモン剤、ACTH、蛋白同化ホルモン等による治療については自然寛解が多いためにどの程度有効なのか今後の検討すべき問題であるとした。

(12)  同年七月出版の「小児の眼科」(慶応義塾大学植村操ら編集)の本症の項には、酸素療法が本症の大きな因子となることはまちがいないとしたうえ、オーエンスによる臨床経過の分類を示し、(10)と同様の予防法、治療法を記載してあつた。また、本症は未熟児だけでなく成熟児の中にもまれながら、発生するし、未熟児で酸素を与えなかつた例にも発生するものがあるので、酸素療法の制限で解決したと断定するのは早計であることやすべての未熟児には少なくとも三か月間は一、二週間ごとの定期的眼底検査の施行が必要であるとも記されていた。

(13)  昭和四二年八月、取鳥大学医学部眼科教室の松浦啓之は、「眼科臨床医報」において、本症瘢痕期の三症例を報告し、本症の発生機転は明確な定説を得るに至つていないが、酸素が未熟児の網膜血管を侵し、血管の新生を伴う組織が非炎症性に起つて膜様物を生じ、硝子体内へ侵入したものであるとし、本症研究の歴史を紹介したうえ、報告した三例に相当の未熟性と生後かなり高濃度、長期間の酸素補給を受けた共通点があると述べた。

(14)  同年八月、植村恭夫らは、「医療」において、瘢痕期症例を示し、本症は過去のものではなく、完全と思われる保育管理下において、あるいは成熟児にも発生していると警告し、本症の原因についてはまだ解決すべき点が残されているのでその研究を続ける一方、現時点においては未熟児の眼科的管理を徹底し、活動期症例の治療法の研究等を行なう必要があると述べた。

(15)  昭和四三年四月、天理病院眼科の永田誠らは、「臨床眼科」において、昭和四一年四月に同病院開設以来小児科未熟児室で総数四六名の未熟児を扱い、生存例三六名中三一名について眼科的管理を行なつてきたが、そのうち六例につき本症が発生し、うち二例は次第に悪化し、オーエンスⅡ期からⅢ期に移行したのを確認したうえで網膜周辺部の血管新生の盛んな部分に対して全身麻酔のもとで光凝固を施行したところ、頓挫的に病勢が停止したこと、その後の観察により眼底は周辺部の光凝固の瘢痕以外ほぼ正常であることを報告し、本症には自然寛解があり、光凝固を施行すべき時期には問題があると思われるが、十分な眼底検査による経過観察により適当な時期を選んで行なえばあるいは有力な治療手段となる可能性があると述べた。

(16)  同年六月発行の「眼科臨床医報」には、昭和四二年一一月二六日大阪医師会館で行なわれた第二〇回大阪眼科集会で、大阪市立小児保健センターの竹内徹らが、本症三〇例につき検討したところ、保育器内酸素が四〇パーセント以内であつても仮死発作の間歇期を通じて一か月半投与した例に本症の発生したものがあつたと報告し、呼吸障害のないものに漫然と長期間投与することの危険性を指摘したことが記されていた。

(17)  同年九月、国立小児病院新生児未熟児科の奥山和男らは、「眼科」において、酸素投与法として一度チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め、次に酸素濃度を低下させてチアノーゼの出現する濃度を見出し、このときの酸素濃度の四分の一だけ高い濃度で維持するウオーリイとガードナーの方法を紹介し、さらに、酸素濃度を頻回に測定するとともに、ときどき濃度を下げてチアノーゼが出現するかどうかを観察し、不必要に高濃度の酸素を与えることのないように注意すべきであると述べた。

(18)  同年同月、植村恭夫は、「眼科」において、本症研究の歴史等を紹介し、予防法として未熟児の眼科的管理とりわけ定期的眼底検査の必要性を強調し、また酸素療法中止のときには急激な減量を避け、徐々に減量を開始し、もし発症の徴候があればもとの酸素環境に戻すことなどを提唱した。

(19)  同年一〇月、永田誠は「眼科」において、(15)と同じ光凝固の実施二例を報告し、光凝固が本症の進行症例に有効な治療法となる可能性があると考えられると述べた。

(20)  同年一〇月発行の「臨床眼科」には、昭和四二年一一月一〇日国立教育会館で開かれた第二一回臨眼グループデイスカツシヨンで奥山和男が、チアノーゼを示す未熟児にはこれを消失させる最低濃度の酸素を投与し、呼吸障害を有する未熟児に高濃度の酸素を投与しなければならないときは動脈血の酸素分圧値を測定することが望ましいと述べ、植村恭夫が定期的眼底検査の施行により発見した本症例について述べ、竹内徹が酸素濃度四〇パーセント以下という基準をそのまま適用することは危険であり、酸素投与が長期にわたるときは本症の発生する危険性が高いことが判明したので、これらの点から小児科、眼科医の細心の管理体制が望ましいと強調し、名古屋市立大学の馬嶋昭生が本症と生下時体重、在胎期間、酸素供給期間との関係について述べたことが記されていた。

(21)  同年同月発行の「日本小児科学会雑誌」には、竹内徹らが第一二回未熟児研究会で(16)と同様の報告をし、特に小さい低出生体重児に対して酸素を投与するのはどうしても必要な場合に限り、使用を開始しても症状の回復期の投与に充分注意し、漫然と長期間にわたる酸素投与はできるだけ避けるよう努力すべきであると述べたことが記されていた。

(22)  同年の「眼科臨床医報」には、昭和四二年六月二四日名古屋大学附属病院で開かれた第二五二回東海眼科学会で、馬嶋昭生が本症例を報告し、予防対策について述べたことが記されていた。

(23)  昭和四四年一月、関西医科大学眼科学教室の塚原勇らは、「臨床眼科」において、昭和四二年三月から同四三年八月の間同大学病院未熟室に収容された一三六例について眼底を検査したところ、本症七例が発生したことが判明したと報告し、最高濃度が四〇パーセントを越えないようにしても本症が発生しないと安心することはできないと述べた。

(24)  なお、永田誠らは、前回の光凝固による治療二例((15)、(19))ののち、昭和四三年一月から同四四年五月末日までの間に天理病院未熟室で扱つた未熟児の生存例五三例中八例に活動期病変を発見し、うちオーエンスⅢ期に入りその後も進行を止めなかつた二例と同期間内に他病院から送られてきた本症二例(うち一例はオーエンスⅢ期、他の一例はすでに左眼がⅤ期、右眼がⅣ期)の合計四例につき光凝固療法を施したところ、Ⅲ期で行なつた三例はいずれも後極部に瘢痕を残すことなく治癒したが、これより進行していた一例については効果が認められなかつたので、このことから光凝固はオーエンスⅢ期に入つて網膜剥離を起す直前に行なうべきであるとの結論に達した。そして、この結果を報告した論文は昭和四五年五月、一一月発行の「臨床眼科」に掲載された。

2  渡辺医師の経歴と川口市民病院の概況

証人渡辺敏彦の証言によると次の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(1)  渡辺医師は、昭和二八年日本医科大学を卒業し、翌二九年四月に医師免許を取得したのち、同年八月から同大学小児科、昭和三四年一月から川口済生会病院にそれぞれ勤務したが、その後、昭和三八年二月一日川口市民病院に移り、昭和四三年三月一日からは同病院小児科部長として勤務してきたものである。

(2)  川口市民病院では、内科、外科、産婦人科、小児科、眼科等一〇診療科目があり、医師三四名、ベツド数二七七床を有する総合病院であるが、昭和四四年一〇月ころには小児科医が三名おり、保育器四台を保有していた。同病院では、一般の成熟児は産婦人科で保育するが、生下体重二、五〇〇グラム以下のいわゆる未熟児や成熟児でも疾患が認められる場合には小児科に移されて、ここで保育医療を行なつており、小児科で保育していた依頼は一か月に六〇ないし七〇名であつた。当時は、小児科において小児の眼に異常があれば個別的に眼科に診療を依頼することにはなつていたが、未熟児の定期眼底検査のため眼科と小児科が協力する体制が確立されるには至つておらず、これが行なわれるようになつたのは昭和四八年からであつた。しかし、本件までは同小児科で扱つた小児で本症の発生が認められたことはなかつた。

3  過失の有無の判断

(一)  渡辺医師の酸素療法上の過失について

前記三の1で認定した事実によると、原告美徳に対して酸素療法が行なわれた昭和四四年の九月、一〇月ころまでに出版された医学専門雑誌掲載の論文や医学書の多くの見解において、酸素療法が本症発生の重要な因子となつていること、したがつて、その発生を予防するため酸素療法を行なうときには酸素の供給量及びその期間をできる限り制限しなければならないとすることは共通するところであり、医学界で一般に是認され、ひろく知られていたものと推測されるが、三の2で認定した渡辺医師の経歴、立場を考慮すると同医師としても右事実は当然認識していなければならなかつたものと判断される。

しかし、右の予防法は、その記述自体からも明らかなとおり、いわば一般的指針とでもいうべきものであり、これにより臨床医師において実際にどれほどの酸素をどの程度の期間供給したらよいのかが直ちに判明するものではない。原告らは、未熟児を保育する医師が酸素療法を行なう際には保育器内の酸素濃度は四〇パーセントまでとするより具体的な基準があり、これを越えて酸素を供給してはならない注意義務があつた旨主張し、前記三の1の(2)、(5)、(9)、(10)のとおりこれに添う考え方が多数発表されてはいたけれども、そもそも酸素の供給は正常な呼吸を回復せしめて未熟児の生命を救い、脳障害に陥るのを防止するという極めて重要な目的のために行なうものであつて、この目的のためには濃度四〇パーセントを超えて酸素を供給する必要がある場合も当然予想されるところ、右の基準を唱える者がこのような場合にまで右濃度を越える供給を否定するものとは解されないのであり、しかも、当時までに四〇パーセントの基準を導守した例においても本症が発生したことも報告されるに至つていた(三の1の(16)、(20))ことも合わせ考えると、右の基準は絶対的なものとはいいがたく、一応の目安の域を出るものではないのであつて、臨床医師においてこれを導守すべき法的注意義務があつたとはとうていいえない。また、チアノーゼを現出せしめない最小限の濃度の酸素を最少限の期間に限つて供給すべきであるとする説(三の1の(5))やチアノーゼの出現する濃度より四分の一高い濃度とすべきであるとするガードナーの説(三の2の(17))を紹介した論文もあらわれてはいたが、これらの説が当時一般に承認されたものとなつていたと認めることはできず、右のほかに具体的基準を述べたものはみあたらないから、本件当時までは酸素の供給に関する具体的な基準は確立されていなかつたものと推認される。

したがつて、具体的な酸素の供給量やその期間は、臨床医において、個々の未熟児の状況に応じて必要な程度を決めるほかないのであるが、右のとおり明確な基準が存在せず、しかも、もし酸素の供給量や期間が必要な程度を下まわつたときには生命の危険や脳障害に陥る危険に結びつくことも十分考えられるのであるから、その判断については相当の裁量の範囲が存し、必要な量やその期間を多少越えて酸素を供給した場合でもその措置に一応の合理性が認められる以上は過失責任を間うことができず、裁量の範囲を越えて不要な酸素を供給した場合にはじめて責任を問うことができるというべきである。

これを本件についてみると、先に認定したように、渡辺医師は、昭和四四年九月二二日原告美徳が出生後直ちに小児科に移された際、四肢にチアノーゼがあり、顔色がやや蒼白で呼吸困難の徴候を示していたので酸素を一分間に2.5リツトルの割で供給し、それでも四肢のチアノーゼが消失せず、四肢に軽度の冷感があつたので酸素流量を一分間に三リツトルに増し、同年一〇月一日に至つて同原告が無呼吸状態を繰り返し、チアノーゼが顔面、手にみられ、全身の冷感が強度で心音も低くなつたため、酸素流量を一分間五リツトル(濃度五四パーセント)とし、同月二日には一旦三リツトルに下げたところ、再び容態が悪化したので五リツトル(濃度五〇パーセント)に戻し、その後、同原告の状態をみながら徐々に酸素流量を減らし、同月二九日に打切つたものであつて、最高一分間に五リツトル、濃度にして五四パーセントまで酸素を供給したのであるが、このときには原告美徳は一、二分間にも及ぶ無呼吸状態を繰り返す極めて重篤な症状に陥つていたのであるから、この措置には合理性が認められるというべきである。

原告らは、未熟児の一般状態に合わせてきめ細かく酸素濃度を調整し、チアノーゼの消失を基準にしてできるだけ速やかに濃度を低くすべきであつたのに、渡辺医師はこれを怠つたと主張するけれども、右のとおり同医師は原告美徳の状態に応じて酸素の供給量を変えており、現在の医療水準からはより細かい調整を求められるとしても、当時の水準からすれば、これ以上の調整を法的義務として求めることは難きを強いることとなつて相当でなく、また同医師が徐々に酸素量を減じたことは小児に呼吸異常を起させないという観点から首肯できるうえ、当時は本症の予防のためにも急激な酸素の減量は避け漸減すべきことがひろく唱えられていた(三の1の(1)、(2)、(9)、(10)、(18))ことからも当時としては妥当な措置であつたというべきである。してみると、渡辺医師には裁量の範囲を越えて不要な酸素を供給した事実は認められない。

なお、原告らは、酸素療法を行なう場合には未熟児保育相当医師は必ず眼科医を参与させ、眼科医との緊密な協力体制のもとにこれをなさねばならない義務があつたと主張し、三の1で認定したとおり、医学書等にも同趣旨の考え方が述べられてはいた((2)、(4)、(20))けれども、これらは具体的には、眼科医において眼底検査を行なつて本症の発生を未然に発見して、酸素量を調整することにより本症発生を予防し、あるいは本症の発生を早期に発見して早期に治療を施して軽度のうちに治療する趣旨と推測されるところ、当時はいまだ眼底検査の義務が存在しなかつたことは後に述べるとおりであるから、小児科医において、眼科医を参与させ、これと協力することが法的義務となつていたものとは認められない。

また、原告らは、渡辺医師には酸素濃度の測定は流量計のみではなく、濃度計を使用して一日に三回程度測定し、これを記録しておく義務があつたとも主張し、定期的に濃度を計るべきであるとする医学書も存在した(三の1の(5))けれども、この見解が一般的であつたとは認められず、前述のとおり、濃度を四〇パーセントまでとするべきであるという基準も一応の目安にすぎず、医師が酸素療法を行なう際、酸素濃度を知ることが特に必要であつた事情もなかつたことも考えあわせると、濃度計を使用して濃度を定期的に計る法的義務があつたとまでいうことはできない。

以上のとおり、結局、渡辺医師の原告美徳に対する酸素療法については当時の医療水準からみて原告らが主張するような過失が存在したとは認められず、そのほかの過失があつたとする証拠もない。

(二)  渡辺医師の全身管理上の過失について

原告らは、渡辺医師が酸素療法中原告美徳の体温、呼吸数、脈博数などの検査をしなかつた疑いがある、体温が低いときや四肢にチアノーゼが生じたときには保温器内の温度を調節したり、幼児に衣服をつけるなどの体温調節の措置をとらなければならないのに、このような措置をとつたか疑問があるとして身体状態の看視と対応を怠つた疑いがあるという。

しかしながら、渡辺医師が原告美徳の身体状態の看視やそれへの対応を怠つたと認定するに足りる証拠はなく、かえつて、〈証拠〉によれば、原告美徳の身体状態については、毎日三回体温が、二、三日おきに体重がそれぞれ計られていたほか、毎日黄疽の有無、糞便の量が調べられ、毎日数回チアノーゼの有無、呼吸、身体の色、体動、冷感、排尿の有無等に注意し、記録しており、これに応じて適宜措置がとられたことが認められ、これに反する証拠はないのである。

また、原告らは、渡辺医師が原告美徳に対し生後三日目にして初めて糖水を与え始めたにすぎず、その後も栄養補給が適切でなかつたと主張し、〈証拠〉によれば、飢餓時間六〇時間をとり、出生日をいれて四日目の九月二五日に初めて人工栄養二CCを与え、その後これを増量していつたことが認められるが、原本の存在及び成立に争いのない〈証拠〉に照してもこの措置が臨床医師の裁量の範囲を逸脱したということはできず、他にも右主張を立証する証拠は存在しない。

(三)  渡辺医師及び被告の眼底検査の懈怠について

原告らは、本件医療行為の当時、未熟児の保育医療を相当する小児科医としては眼科医として協力して定期的に眼底検査をすることが不可欠であることはすでに常識となつていたのであるから、渡辺医師は原告美徳の全身状態が回復したと思われる時期か、酸素療法を中止したころ、遅くとも保育器から出た時点ないし退院した時点で眼底検査を行なうべきであつたし、被告はその経営する川口市民病院において産科、小児科と眼科の連絡体制をとり、眼科医による定期的眼底検査を実施させなければならなかつたと主張するところ、証人渡辺敏彦の証言により、原告美徳が同病院を退院したときまで眼底検査が行なわれなかつたことが認められるので、眼底検査を行なわかつたことが当時の医療水準に照して過失といいうるかどうかにつき検討する。

本症の予防、治療に対する役割という観点からみると、眼底検査は本症の発生を予見し、あるいは早期のうちに発見する一つの手段にとどまるから、それ自体で、本症の予防ないし治療に効果があるものでないことはいうまでもないことであり、したがつて、本症の臨床経過や原因、その予防法、治療法等を研究する場合はともかく、臨床的には予防法、治療法と結びついて初めて意味を有することになる。すなわち、本件当時の眼底検査のもつていた意義はこれと結びつくに足りる有効な予防法、治療法が存在していたか否かに左右されるわけである。

そこで、本件当時の予防法、治療法についてみるに、予防法については、三の1で紹介したとおり、本件当時までに酸素療法の際に注意すべき点を教授する論文や医学書は多数発表され、これらは酸素の供給量やその期間の制限に関し述べてはいるけれども、あるいは酸素の供給量やその期間を必要最少限に制限すべきであるとし、あるいは保育器内の酸素濃度は四〇パーセントまでに押えるべきであるとし、あるいはチアノーゼが消える酸素濃度より四分の一だけ高い濃度とすべきであるとするにとどまり、眼底検査と結びつけてこれを論ずるものは見当らないばかりか、現在においても眼底検査の予防に対する有効性については疑問とされているのであるから、本件当時眼底検査と結びついた有効な予防法が存在したとは考えられない。

次に、治療法についてみるに、現在までに適度の酸素供給、ACTH、蛋白同化ホルモン、ATP、副腎皮質ホルモンなどの薬物療法そして光凝固、冷凍凝固の物理療法が提唱された。そのうち、本症の発生をみたら再び未熟児を高酸素環境に戻すという酸素供給による治療法は、これを唱えたり、これにより治癒したと報告したものがあつた(三の1の(1)、(4)、(8)、(9)、(10)、(12)、(18))けれども、これを無効とする説((5))もあつたのであり、有効とするものも何故有効であるかという点の説明をしたものがなく、単に経験的にこの措置をとつた症例において治癒したものがあつたことを示すにとどまるものと解され、この治療法が確立していたものとは認められず、薬物療法についても、これを紹介する論文があつた((4)、(8)、(9)、(10)、(12))けれども、植村医師が自然寛解が多いためにどの程度有効なのか今後の検討すべき問題であるとした((11))ことが端的に示すように、確立されたものとはなつていなかつたと推認される。そして、現在においては、薬物療法は否定的に解され、適度な酸素を供給する法に至つては顧みられることもないのである。

これに対して、光凝固法と冷凍凝固法の物理療法は、現在では有効であると一般に承認きれている治療法であるが、三の1の(15)、(24)のとおり、光凝固法は永田医師らによつて最初に実施された二例が論文として発表されたのが昭和四三年四月であり、その次に同医師らによつて実施された四例について発表されたのは昭和四五年五月と同年一一月であり、また原本の存在及び成立に争いのない〈証拠〉によると、関西医科大学の塚田勇医師が最初に実施したのは昭和四五年六月であつたこと、同じころ九州大学の大島建司医師なども実施をしたことが認められ、これに反する証拠はないのであつて、昭和四四年一〇月ころは、光凝固法の最初の実施例が発表され、これにより先進的な少数の医師により同法が実施されてその有効性が試され始めていた時期であつたと推認できる。ところで、一つの治療法が一般に行なわれるようになるためには、これが当該疾病に有効であることが先進的研究者による多くの症例に対する実施によつて確認されることはもとより、その治療を受けた者について長期間にわたる追跡調査によつて副作用が存在しないことが確認されることが必要であることは公知の事実であるところ、本症に対する光凝固法は本件当時これらの確認がいまだなされていなかつたものであり、三の1の(15)で示した永田医師らの論文が結論として述べた如く、「光凝固が有力な治療手段となる可能性がある」という段階にとどまつていたのである。そして、〈証拠〉によると、冷凍凝固法が本症に対して実施されたことが発表されたのは光凝固法より遅く本件後の昭和四五年の秋であることが認められ、これに反する証拠はない。

以上を要するに、眼底検査は本件当時これと結びつく有効な予防法ないし治療法が確立していなかつたため臨床的にはほとんど意義を有するに至つていなかつたのである。

そして、その普及状態をみてみるに、前記二の4で述べたとおり、わが国においては昭和三九年ころまでは本症に対する一般医師の関心が薄く、未熟児の眼底検査はほとんど行なわれておらず、昭和三九、四〇年ころから植村医師の研究により次第に本症への関心が高まり、定期的眼底検査の必要性が説かれるようになつてきたのであるが、植村医師らが本件当時に至るまで繰り返し眼底検査の必要性を唱えた論文等を発表していたことや、埼玉県下の国立病院である埼玉国立病院でも小児科医と眼科医が協力体制をつくつて定期的眼底検査を始めたのは昭和四六年以降であつたこと(〈証拠〉によつて認められる。)に鑑ると、本件当時においても一般の臨床医には普及したとはいえない状態にあつたと推認され、前述の予防法、治療法がなかつたことがその理由の一つになつていたと思われるのである。この点について、三の1の(1)、(11)、(15)、(19)、(20)、(22)、(23)で紹介したとおり、本症の症例を発見した旨の報告がなされているところから、その前提として眼底検査が行なわれていたものと窺知されるのであるけれども、これらは本症に特に関心を持つていたごく一部の先駆的研究者によつて行なわれたものというべきで、これをもつて直ちに一般臨床医においても実施していたものと認めることはできず、また、〈証拠〉によると昭和四六年度国立病院未熟児医療実態調査成績では本症診断のための眼科医との協力体制が整つていたところが、64.9パーセントあつたことが認められるけれども、本件当時と昭和四六年の間には光凝固法の存在の浸透とその有効性の確認の程度において大きな差があると推認されるので、これをもつて本件当時の普及度を推測することはできないのであり、そのほかに右の認定を左右するに足りる証拠はない。

結局のところ、本件当時、眼底検査は本症の予防、治療と結びついたものではなく、一般臨床医にはいまだ普及していなかつたものであり、二の4で述べたとおり、未熟児の眼底検査はこれを修得するには相当の期間を必要とする高度な技術を要することを考えあわせると、当時においては、未熟児を扱う小児科医、産科医に自らないし眼科医を介して右検査を実施すべき法的注意義務があつたとはいいえず、病院においてもこれをなさせるべき義務はなかつたのである。そして、三の2で述べたとおり、渡辺医師は特に先駆的に本症を研究していた者でもなく、またこれを期待される立場にあつたものではないのであり、川口市民病院においても先進的な特別の措置をとるべき事情は存在しないので、渡辺医師ないし同病院を経営する被告にこの点に関する過失があつたとは認められない。

(四)  渡辺医師及び被告のその他の過失について

原告らは、渡辺医師は原告美徳に対し光凝固法による治療をすべき義務があり、被告はこれをさせるべき義務があつたと主張するが、(三)で述べたとおり、本件当時は本症に対する光凝固法はいまだ確立された治療法となつていなかつたのであるから、これを実施すべき法的義務があつたということはできない。

また、原告らは、渡辺医師及び被告には眼底検査ないし光凝固法を実施するため原告美徳を転医させる義務があつたと主張するけれども、これは一般臨床医に眼底検査ないし光凝固法を施すべき義務があることを前提とするものと推測されるところ、前記のとおりこの義務があつたといえないのであるから、前提を欠くことになり、認容する余地はない。

さらに原告らは、渡辺医師には本症の発生を予測し、保育中もしくは退院時に本症発生の可能性、眼底検査、光凝固による治療がある旨両親に説明し、直ちに専門医の診断を受けるよう指示する義務があつたと主張するが、前記のように、本件当時は光凝固法はいまだその有効性についても確認されておらず、そのため眼底検査の意義もほとんど認められなかつたことに鑑ると、右の説明をすることが法的義務になつていたとは認められない。

(五)  以上によつて明らかなとおり、原告美徳が本症により失明するに至つたことについて原告らが渡辺医師及び被告の過失として主張する点は、いずれも採用できず、そのほかに渡辺医師が原告美徳に対して行なつた医療行為や不作為及び被告の不作為に過失があつたと認めるに足りる証拠はない。

4  債務不履行責任の有無

前記一の各事実によれば、昭和四四年九月二二日原告徳市、同みよ子それに右両原告を決定代理人とする原告美徳と被告との間に、被告が川口市民病院において未熟児である原告美徳を保育医療するという事務処理を目的とする準委任契約が成立したと推認され、渡辺医師が被告の履行補助者として原告美徳の保育医療にあたつたものと認められるけれども、同医師及び被告には過失が認められないことは前述したとおりであつて、被告において右準委任契約の債務は十分履行されたものと認められるから、被告に債務不履行の責を負うべきであるとする原告らの主張も採用できない。

四むすび

以上のとおりであるから、原告らの本訴請求はその余の点を判断するまでもなく理由がないからいずれもこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項を適用して主文のとおり判決する。

(小池二八 小圷真史 片山俊雄)

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